vol.9

リレーノート⑦ 書籍編集長がプロデューサー吉村達也の原点
梶原秀夫(ノアズブックス出版プロデューサー)



吉村さんがニッポン放送から扶桑社へ出向されて、ふたりでいっしょに作った最初の本は確か『松田聖子 愛にくちづけ』だったんじゃないかな。当時、制作会社の編集者だった僕がお手伝いしたと記憶しています。発売は1984年1月です。

その翌年、吉村さんは編集長になって、とにかくたくさんの本を一緒に世に送り出しました。

何と言っても忘れられないのは、オールナイトフジの『私たちはバカじゃない』から始まる一連のテレビ・ラジオの番組から生まれた出版物です。三宅裕司のヤングパラダイス編『恐怖のヤッちゃん』、フジテレビの『ぜーんぶおニャン子』、ニッポン放送の『究極の選択』、『10回クイズ』……などなど。

そして、『ぜーんぶおニャン子』が売れに売れて、僕は扶桑社と出版プロデューサー契約を結ぶことになったのです。それからは、吉村さんが扶桑社を退社するまで、本当にいろいろな本を一緒に作りました。



当時の編集部は吉村編集長のもと、外部の契約プロデューサである僕と、編集部員が4人くらいかな。ユニークな編集部だったと思います。

当時の編集部員から、吉村さんのほかにも作家が2人生まれているのも不思議です。一人は五十嵐貴久、もう一人は白崎博史。五十嵐貴久はペンネームですが、彼がまさか作家になるとは思いもよりませんでした。

白崎くんはユニークな発想をする編集者でした。彼は今、映画『はやぶさ』のシナリオを書いたり、数多くのノベライズを世に送り出しています。

編集者としては、磯俊宏くんが優秀でしたね。彼と僕はおニャン子本など、一連の番組本を数多く一緒に作りました。今は、メディアファクトリーで書籍部の編集長です。



こんな個性的な編集者の集まりを束ねていた吉村編集長ですが、ラジオマンから編集者へ転身されて、苦労も多かったんじゃないかな。

毎週の企画会議は当然として、、編集長自らがスケジュール表を作っていましたね。真面目な編集長という印象でしたが、編集部内では最も仕事をしていたように思います。

僕はつい、みんなを連れては酒を飲んだりしてばかり。吉村編集長は自らも編集担当者として本を作りながらも、会社の会議、グループとの折衝などなど、ほんと、よく働いていたという印象しか残っていません。

たまに、二人で食事をすることがあっても、いつも仕事の話ばかりしていたように思います。よくファミリーレストランで深夜に食事をしたのを思い出します。



言い合いをしたことも何度かあったけど、いいコンビだったですね。だから、いまでも企画の話になると、ついつい昔のように盛り上がってしまいます。作家と編集者という垣根がなくなってしまうと感じているのですが、どうなんでしょうか……。

来年は、時間が許せば、面白い企画を実現したいと思っています。ねえ、吉村編集長!