Vol.8

自分とは別の自分  リレーノート⑥
吉村達也



梶原さんが前回のリレーノートで書いたように、たしかにぼくの中には、吉村達也という作家を客観的にみている「所属事務所の社長」あるいは「担当プロデューサー」としてのもうひとりの自分がいますね。

ただ、執筆中は純粋に作家です。作品と取り組んでいるときは。作品がいかに面白いものになるかだけを考えているので、公的にも私的にも、まったく社会性はなくなります。

睡眠時間は執筆の進行具合によって決められるため、生活サイクルはめちゃくちゃになるし、作品の世界に入り込んだら、一週間も二週間も郵便物を開封しなかったり、郵送されてきた出版契約書をすぐ紛失したり(いかんな)、もうそういう事務的なことが一切できなくなります。

現実世界の出来事に触れたくなくなるんです。

すべてが執筆最優先。

ぼくを作品の世界から表に引きずり出さないでほしい。実社会という名の太陽に当たったら、ドラキュラのように身体が溶けてしまう。それぐらいの気分。



長いつきあいの梶原さんは、そういうぼくの欠点を知り尽くしていながら遠慮して書かなかったみたいなので自分で言いますが(笑)、仮想世界に入り込んだら、ぼくは容易なことでは現実世界に出てきませんよ、天岩戸にとじこもった天照大御神みたいに。



もちろん気分転換はします。遊びます。でも、映画を見たり、野球や芝居を観にいったり、山歩きをしたりという時間があったら、もう少し社会的なことをちゃんとしたらどうか、という自分がいないわけではないんだけど、そんな事務的にきちんとせよという声を聞いてたら、作家はできませんね。

まあ、そういうデタラメな自分をあえて許している「プロデューサーとしての自分」が、いるっちゃー、いるんですが。

それと、奥さんが文句も言わずに支えてくれているので、とってもありがたいです。大変だろうな、とは思います(笑)。笑ってる場合じゃないかもしれませんが。

この人と結婚していなければ、いまの自分がないことだけはたしか。超・感謝!



一方、企画の打ち合わせでは、梶原さんが言うように、おそろしく客観的な自分がいまして、ここの部分はいつになくマジメなんです。そのときのプロデューサーとしての吉村達也は、作家・吉村達也のことを「たかがウチの選手」(©ナベツネ)程度にみているんで、吉村達也という人に対してきびしいことをビシビシ言いますね。

吉村達也に対してもっともきつい言葉を浴びせるのは、事務所社長の吉村達也ですね。




けっきょく、志垣警部や和久井刑事が「ダメおやじ」や「軟弱青年」といった側面と、推理の切れを見せるプロの捜査官という両方の側面を持っているようなものでしょうか。

復活した氷室想介が、以前ほど完全無欠のイメージではなく、気の弱いところも出すときはモロに出すようになったのも、ぼく自身のそういう二面性を投影しているからかもしれません。


……いやいや、ぼくは氷室先生ほどマジメではありませんが。



でもね、そういう使い分けができないと、作家という商売の精神衛生は健全に保たれないんですよ。

昔の文豪でナーバスゆえに自殺までいってしまった人とか、現代でも深い悩みに突入する方がいらっしゃいますが、人格はひとつしかないと思い込んでいるところに無理があるんじゃないんでしょうかね。



それは二重人格を肯定するというのではなく、他人が抱くイメージに自分の核心部分がふり回されることはない、という意味です。

これは作家にかぎらず、誰にでも言えることですね。真の人格は他人にはわからない。ほんとうに自分に近しい人にしかわからないんですから、核心部分でマジメであれば、テキトーな人格によって自分をゆるめてやる必要はとってもあると思うのです。

氷室先生も、最近そのあたりに目覚めたそうです(笑)。



あ、そうそう、語学に取り組んでいるときの自分だけは、自分でもこんなに勉強家だったのかと思います。これは、ことしの意外な発見でした。