第2巻『京都魔王殿の謎』 リレーノート④
吉村達也
梶原さんが前回書いた二通りの楽しみ方
ひとつは、自分で真相を推理する楽しみ。
もうひとつは、作者にだまされる楽しみ。
この「作者にだまされる」という観点から、ぼくがよく言う「二回転半ひねり」のことについて、ちょっとふれておきたいと思います。
「二回半ひねり」というのは、なにも具体的なドンデン返しの回数を指しているのではありません。そもそも「二回ひねり」はわかるけど「半」はなんだよ、って話になりますしね(笑)。
これは「読者をだますためのドンデン返し」ではなく、作者の作者自身に対するアイデアのダメ出しの姿勢を表わしている言葉なのです。
最初にパッと浮かんだアイデアというのは、いかに「これ最高!」「いままでにない!」と思っても、意外と読者の想定内だったりするんですね。誰でも最初に思いつく意外性は、意外じゃないんです。
だから、最初に浮かんだアイデアは、どんなにすごいと思えても、必ず練り直されなければならないと考えています。そして、練り直しても「まだないか」「まだほかにアイデアないか」と考えつづける。
これが私のいう「二回半ひねり」の正体……のようなものです。
ただ、そうは言っても、最初にパッと浮かんだアイデアは、たとえいろいろな欠点がすぐ見えたとしても、まずは「これ最高じゃん!」と自分でノって受け入れていけるぐらいのレベルであることが必要です。
「どうだかなあ」と自分で懐疑的になるような着想は、そもそも二回半ひねりの土台にすらならないので、即ボツです。
それから、ぼくは担当編集者に事前にあまり詳しいアイデアを話さないんです。
なぜかといえば、どんなアイデアも、それが翔んでる内容であればあるほど、欠点もすぐ目につくわけで、それはもう自分で最初からわかっている。
それを書きながら検討して修正したり、補強したりするわけで、第三者からみれば最初のアイデアはツッコミどころ満載です。でも、「これはちょっとアレなんじゃないんですか」と否定的見解を述べられると、こっちも言い訳からスタートする。それは作者と担当編集者の関係において、あまり好ましくないスタートラインなんですね。
最初から完璧にほころびのない構想をつくることは、発想の自由さをさまたげることにもなる。だからぼくは、欠点も多いけれど、とにかく面白い着想を大切にします。それを二回半ひねりの土台として、問題点を洗い出しながら、もっといいアイデアはないかと考えていくわけです。
ぼくがプロデビューしたてのころ――つまり、いまから20年以上前になりますが――新人のぼくについたベテランの担当さんが、こちらがトリックのアイデアを出すたびに、まず穴を見つけるところからはじめるので、すっかりブレーキがかかったことがあります。
これは一般企業の会議でもいえると思うんですが、アイデアをつぶすのはかんたん。むしろ大きく破綻していても、アイデアのいいところを伸ばす、まずはめちゃくちゃ面白がってみる、そういう姿勢が、とても大切だと思います。
ぼくは、担当編集者が第一の読者だと思っています。だから、担当編集者がまっさきにだまされてほしい。そういう意味で、本作が第一の読者である梶原さんから、心地よくだまされたと言ってもらえたのは、非常にうれしいですね。
とにかく『京都魔王殿の謎』は、旧作より一段深いところへ突っ込んでいきました。これによって、『京都魔王殿の謎』は『京都魔界伝説の女』とはまったく別の作品になりました。
あ、それから旧作にあった香港返還のシーンなどは、まったくありません。時代背景が違っていますので。舞台は2011年、秋の京都です。